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宮崎県の「宮崎」,現在の宮崎地方を古くから「ミヤザキ」と呼んで
いたことに由来します。10世紀初頭にできた『和名抄(わみょうしょう)』に「宮崎郡」の名称が出ていますが,昔この地には
神武(じんむ)天皇の宮居(みやい)があったと伝えられ,天皇にまつわる伝承も多いのです。宮崎の「崎」は,宮の「あたり」
「所在地」という意味で,宮崎神宮の前身である「神武天皇社」という神社が昔からあったことによる地名ではないかと思われま
す。明治新政府は王政復古(おうせいふっこ)にふさわしい県名として,これを選んだのではないかと推測されます。
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現在の宮崎県の成立は1883(明治16)年ですが,実はこれは2
度目の宮崎県(「再置宮崎県」)の誕生であり,所轄(しょかつ)区の変遷(へんせん)という明治初期の複雑な経緯がありま
す。最初に日向(ひゅうが)国全域を管轄する宮崎県が成立したのは1873(明治6)年1月です。1871(明治4)年に置
かれた美々津(みみつ)・都城(みやこのじょう)両県は1873(明治6)年1月15日に廃され,1876(明治9)年8月
21日政府は行政整理のため全国3府37県とし,この時宮崎県も廃され,鹿児島県に合併されています。初期宮崎県は誕生して
からわずか3年8ヶ月の短命に終わってしまったのです。その翌年に西南の役が起こり,人的にも物的にも多大の被害をこうむり
ました。その後激しい分県運動の結果,1883(明治16)年5月に再び宮崎県が置かれ再出発することになりました。これが
現在の宮崎県です。県都宮崎市は1924(大正13)年に成立しました。
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宮崎県は九州南東部,東経130度42分(えびの市)から131度
53分(北浦町)北緯31度21分(串間市都井)から32度50分(北川町)の間に位置しています。東と南は太平洋に面し,
北は大分県,西は熊本県,南西は鹿児島県に接しています。古代において,わが国と中国との交易が琉球(りゅうきゅう)経由で
行われていたときは,瀬戸内海を経て豊後(ぶんご)水道を通り,日向国の沿岸を南下し,寄港地がいくつかありました。しか
し,わが国の歴史的発展によって都から遠くはなれた日向国は取り残されることになったのです。
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1873(明治6)年に美々津・都城両県が廃止されて宮崎県が設置
された時,県庁はどの城下町にも置かずに,大淀(おおよど)川左岸の上別府村の農家10戸たらずの戸長(こちょう)宅に置い
たことは英断であったのですが,それを核にして都市を造ることは大変なことであったのでしょう。城下町なら人口も集中してい
るし,都市的な機能もある程度見られますが,宮崎市の場合はまず人集めから始めなければならなかったのです。そのため,県外
からの移住者を受け入れて都市造りをしたし,海岸近くの砂丘地帯にも県外からの農業従事者を受け入れました。その発展の足跡
は,北海道の移民都市のそれを見る思いです。
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宮崎県は,大消費地に遠く,しかも自然災害が多いという不利な条件
をもっていますが,冬期間は温暖で晴天日数が多いという恵まれた条件を生かして,早出し野菜などの園芸作物及び畜産を主とし
た農業が特色です。最も早く出回る超早場米は好評を博しています。
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