大分県
県章:
  大分 県の「大」の文字を円形に図案化。
面積:
  6,339.82(km2)
人口:
  1,199,401
県の花:
県の木:
県の鳥:
  ブンゴウメ
ブンゴウメ
メジロ
地図

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[1]県名の由来
 昔,景行(けいこう)天皇が,熊襲征伐(くまそせいばつ)をするた め,豊前(ぶぜん)の都(福岡県)に下ってきました。当時,この地方は,菟名手(うなで―地方の大豪族)におさめさせていま した。あるとき,菟名手が,仲津郡中臣村(なかとみむら)にとまっていた頃,白鳥が飛んできてモチとなり,芋草(うも)(さ といも)が多くとれるようになりました。冬になっても花が咲きこぼれるほどでした。天皇は,なにかいいことが起こる前ぶれだ とたいそうお喜びになられ,芋草の穫れる国を豊の国と名付けられました。
 その後,景行天皇は,豊の国に道をとり,国東(くにさき),速見(はやみ),直入(なおり),日田(ひた)等で逆らう部族 を征伐されました。その途中,今の大分市付近の地形をご覧になって,「なんと広く大きな土地だ。ここは碩田(おおきた)と名 づけるがよかろう。」と言われました。
 この碩田がなまって,大分となったといわれています。『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)』では,このように「豊の国・ 大分県」と称される所以(ゆえん)が記されています。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 宇佐八幡宮の荘園(大分県の原形)は広大なものでした。鎌倉時代, 頼朝は,大友能直(おおともよしなお)を豊後の守護に命じ大内氏との争いとなりました。以後,秀吉の時代まで戦いが続きまし たが,やがて,大内氏は滅び,徳川時代に,中津,杵築(きつき),日出(ひじ),府内(ふない),臼杵(うすき),竹田,森 の小さな藩と天領にわけられ,明治の世に大分県を形成しました。

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[3]大分県の位置
 大分県は,九州の北東に位置しています。東は周防灘(すおうなだ) と豊後水道に面し,北西は福岡県,西は熊本県,南は宮崎県にそれぞれ面しています。
 大分県は,東京から直線ではかると,約800kmの所,大分駅から東京駅までの鉄道距離は約1,140kmです。飛行機で は約1時間30分程の距離です。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 県庁所在地は,「大分市」です。明治4年7月14日廃藩置県(はい はんちけん)が断行され,藩から県になりました。大分県参事として,同11月14日森下景端(かげなお)が任命されました。 仮の県庁を堀川町の幸末平十郎(酢屋)宅に置き,役員は同町,及び,魚町に居住しました。県庁は,明治5年3月には,藩校遊 焉館(ゆうえんかん)に移転し,同年9月には,府内城(ふないじょう)に移り,現在では,この府内町に県庁が所在していま す。

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[5]なんでもお国自慢
「大分県人の県民性は?」
 評論家大宅壮一(おおやそういち)氏は大分県を「日本のスペイン」と評しました。情熱的で,熱中する性質が有るといいま す。「情熱的」は「理性的よりも情緒的」な立場。大分県から,田能村竹田(たのむらちくでん),滝廉太郎(たきれんたろう) 朝倉文夫,福田平八郎など,古来天才的な芸術家・音楽家が輩出されているのは,この気質とつながりがあるのかもしれません。

「山あり海あり温泉ありの大分県」
 祖母山(そぼさん),久住山(くじゅうさん),由布山(ゆふさん),鶴見山,英彦山(ひこさん)等,の山岳地形を有しま す。飯田高原(はんだこうげん)や由布院(ゆふいん)は人々の心を和ませる観光スポットとなっています。また,別府市は,鶴 見山を背後にひかえた,海まで拡がるきれいな扇状地(せんじょうち)。この地域で,すばらしい質と量を誇る温泉がわいていま す。この海岸を南に下っていくと佐賀関(さがのせき),臼杵湾,津久見湾,佐伯湾などのリアス式海岸(日豊(にっぽう)海 岸)があります。漁場としても著名な佐賀関(さがのせき)の一本釣り「せきさば」は世界的に有名です。

 


   

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