長崎県
県章:
  県の 頭文字「N」と平和の象徴である「はと」をデフォルメした。
面積:
  4,105.88(km2)
人口:
  1,427,133
県の花:
県の木:
県の鳥:
県の獣:
  雲仙ツツジ
ヒノキ・ツバキ
オシドリ
九州シカ
地図

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長崎県の豆知識
 ロマンあふれる火の国という呼称から,肥の国,肥前の国・・・と名 前の移るこの国の中原は佐賀平野です。
 そこから西へ遠く隔(へだ)たった,低いけれど険しい山々が海へと落ち込んで複雑な海岸線と多くの浦々をつくる僻陬(へき すう)の地・長崎。こんなところに大都会が出現したわけは近世からの歴史的ないきさつ以外にありません。
 そうです。戦国時代,九州の大名は,富と鉄砲をもたらす南蛮船(なんばんせん)の誘致(ゆうち)にやっきとなりました。

 この地の領主,弱小大名・大村純忠(すみただ)は,自身がキリシタン大名になるだけでなく,一説に6万人といわれる全領民 をすべてキリシタンに改宗させるという思い切った方法でポルトガル船の誘致に成功しました。とはいえ,最初に開いた横瀬浦 (よこせうら)は攻撃をうけて焼かれ,次の福田浦では,松浦(まつら)水軍が停泊していたポルトガル船隊を襲い,海戦となり ました。(艦載砲(かんさいほう)の威力(いりょく)により日本側の敗退)。

 3番目に開いた深江浦(ふかえうら)には港の中央に長い岬が突き出ており,これが長崎の語源とされています。この岬には後 に幕府の奉行所(ぶぎょうしょ)がおかれ,更に先端の海を埋め立てて有名な出島がつくられました。大村純忠は,南蛮船来航で 栄える長崎の港を他の大名から奪(うば)われるのを防ぐため,これを外国領とするという思い切った方法をとりました。かくし てこの地は,豊臣秀吉(とよとみひでよし)が下向し驚いて没収(ぼっしゅう)するまでイエズス会のものでした。長崎独特の風 俗も外国領であったことに由来します。後を継いで江戸幕府は,この港を日本唯一(ゆいいつ)の開港場に指定し,以後の繁栄 (はんえい)を決定づけました。こんな不便な地を開港場に選んだわけはキリスト教の伝播(でんぱ)を恐れたからといわれてい ます。

 こうして幕末に至るまで栄えた長崎の街は当然のごとく県庁所在地になります。しかし,佐賀は薩長土肥(さっちょうどひ)の 4藩のひとつとして独立した県となることを主張しました。こうして肥前の国は2つの小さな県に分かれることになりました。佐 賀圏である壱岐(いき)の島は,戦国時代,佐賀本土に離反した勢力が平戸(ひらど)藩を頼ったいきさつで,平戸領となり長崎 県へと所属し,地勢上は福岡に属すべき対馬(つしま)も,当時1等県といわれた長崎県へ所属しました。

 本県第2の都市,佐世保。この地名の由来は,古代この浦を航海されていた男装の麗人(れいじん)・神功(じんぐう)皇后が 大嵐にあい,乗船の帆がさけて「さけ帆」。これがなまって「させほ」。更にこの地を占領した米軍が,これを発音できず「サセ ボ」となったといわれていますがどうでしょうか。ここを囲む古代の松浦郡の地は,ひとつの県としてもいいほどの広さで,現在 は,佐賀・長崎両県の北部・西部を形作っています。

 さて,本県のお国自慢は美しい山水です。秀麗(しゅうれい)な火山・雲仙岳,多良(たら)岳。広大な海水に満ちた千々石 (ちぢわ)カルデラ。林立する多くのトロイデ様の小火山。その間に入り込み多くの溺(おぼ)れ谷をつくる青い内海。これらの たたずまいは,赤城(あかぎ),榛名(はるな),妙義(みょうぎ)山といった北関東の名山群をそのまま海の上に浮かべたよう な景色といえます。

 最後に一言。長崎の地は,他の県と違い,南蛮船が来なかったら,江戸幕府が港に指定しなかったら,ここは中央から遠く離れ た片田舎の寒漁村に過ぎず,浦々には,大自然のなか,翁(おきな)が釣糸をたれていることでしょう。 

 


   

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