佐賀県
県章:
  円形 は協和の意味,県民が力を合わせ,「三力」(さか)える姿を表している。
面積:
  2,439.67(km2)
人口:
  853,341
県の花:
県の木:
県の鳥:
  クスの花
クス
カササギ
地図

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[1]県名の由来
 廃藩置県(はいはんちけん)によって,佐賀・蓮池(はすいけ)・小 城(おぎ)・鹿島(かしま)・唐津(からつ)・対馬(つしま)の六藩が県と改められました。明治4年9月,佐賀県と厳原(い づはら)県(対馬)とが合併し伊万里(いまり)県が誕生しました。これに,蓮池・小城・鹿島・唐津,それに厳原県の飛び地と 旧幕府領が加わりました。当時の県庁は伊万里でした。伊万里は佐賀藩の重要な港だったからです。1872(明治5)年には県 庁は佐賀に移されました。1876(明治9)年4月に佐賀県は,三潴(みずま)県に合併しましたが,同年5月から8月にかけ て,旧肥前国(ひぜんのくに)はすべて長崎県となりました。こうしためまぐるしい行政区画の変遷(へんせん)を経 て,1883(明治16)年,長崎県から佐賀県が分かれ,現在に至っています。
 なお,「佐賀」の語源ですが,『肥前国風土記』では「佐嘉(さか)」と記され,この伝説をもとにした「賢女(さかしめ)」 と「栄(さか)え」の説が一般的です。しかし,これは伝説の域を出ず,「サガ」もしくは「サカ」という音を持つ地名は,他県 でも河口の三角州に多いことから,「佐賀」の語源は地形に由来すると考えるのが科学的でしょう。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 佐賀県東部は福岡県南西部に接し,その間を蛇行(だこう)しながら 筑後(ちくご)川が流れています。筑後川の下流は,佐賀藩,久留米(くるめ)藩,柳川(やながわ)藩の藩地であったため,漁 業権や川の中島の帰属などをめぐっての問題は多くありました。
 飛び地は存在しませんが,1699年に基山(きやま)(現三養基(みやき)郡)と田代(現鳥栖(とす)市)は,海を隔(へ だ)てた対馬藩の領地となりました。
 現在,県境が未定の地区は,川副(かわそえ)町(佐賀郡)と大川市(福岡県)の一部にあります。

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[3]佐賀県の位置
 佐賀県は九州の北西部に位置しています。佐賀市から東京までの距離 は約1200kmですが,韓国南端の釜山(ぷさん)までの直線距離は200km足らずです。県北端の名護屋(なごや)から は,さらに韓国は近くなります。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 現在の県庁所在地は佐賀市。県庁は北緯33度15分,東経130度 18分に位置します。

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[5]なんでもお国自慢
 皆さん,佐賀をご存じですか。実は,佐賀は大陸に近いという地理的 な背景から重要な所だったのです。古代においては,大陸文化受容の表玄関の一つであったことは間違いないでしょう。『魏志倭 人伝(ぎしわじんでん)』に記載(きさい)される「末盧(まつろ)国」は,県北の東松浦半島に推定されています。この地名 は,古代朝鮮語で「村」・「町」を意味する「マザル」との関連性が認められ興味深いですね。また,国特別史跡としての吉野ヶ 里(よしのがり)遺跡の価値は改めていうまでもありません。佐賀は古代,文化的に高い水準にあり,先進的な役割を果たしてい たといえます。
 近世においても,洋式反射炉の構築に成功し,わが国の工業発展に先鞭(せんべん)をつけたのも佐賀でした。このように,佐 賀は昔から新時代の礎石(そせき)を築いた所なのです。
 現代でも,佐賀は「住みたい県日本一」を目指し,文化的な施設も充実しています。有田町の九州陶磁(とうじ)文化館,鎮西 町(ちんぜいちょう)の名護屋城博物館などの文化的な価値は計り知れません。
 国重要無形文化財として柿右衛門(かきえもん)の濁手(にごしで),色鍋島(いろなべしま),唐津焼も有名です。

 


   

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