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1871(明治4)年の廃藩置県に際して,県域の中心であり,前
橋・高崎などの主要都市が属する「群馬(くるま)郡」の名称から採って付けられた県名です。群馬郡の名称は,藤原京跡から出
土した木簡に「上毛野国車評(かみつけぬのくにくるまのこおり)」とあることから,榛名(はるな)山南東のふもとに勢力を
もっていた豪族「車持君(くるまもちのきみ)」に由来すると考えられています。つまり,「クルマ」に音の似た好字「群馬」を
あてたことが群馬郡の始まりであり,これが現在の県名となったのです。
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上毛(じょうもう)カルタの「つ」に「鶴舞う形の群馬県」という読
み札があります。この札のとおり,群馬県は南東を嘴(くちばし)にして,鶴が羽を広げて飛んでいるような形をしています。こ
のような県域をもつようになったのは,栃木県管轄に入っていた山田郡・新田郡(にった)・邑楽(おうち)郡を合わせて第二次
群馬県が成立した1876(明治9)年です。その後,県域に大きな変化はありません。しかし,太田市や桐生(きりゅう)市な
ど栃木県と県境を接している地域では,小さな分割・合併が繰り返され,最終的に現在の県域が確定したのは,1968(昭和
43)年のことです。
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群馬県は,関東地方の北西部に位置している内陸県です。日本で最も
海岸から遠い県ですが,太平洋へも日本海へも,ほぼ同じ距離にあって,いずれにも日帰りが可能です。県庁のある前橋市は,東
京から北西に約100km,新幹線に乗れば東京駅から1時間ほどの位置にあります。県の中央にある渋川(しぶかわ)市(東経
139度,北緯36度)は,ここにコンパスの針を置いて円をかくと,北海道の北端と九州島の南端がほぼ円周上にくることか
ら,「日本のへそ」,「日本のまんなか緑の渋川」をキャッチフレーズとして,1984(昭和59)年から「ヘソ祭り」を開催
しています。
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1871(明治4)年に群馬県が成立したとき,県庁は高崎に置かれ
ましたが,翌年,庁舎が兵部省に接収され,前橋に移りました。明治6年には,群馬県と入間(いるま)県を廃して熊谷(くまが
や)県が置かれたために,県庁は熊谷に移りましたが,第二次群馬県が成立すると,再び高崎に置かれました。しかし庁舎がない
うえ,いくつかの課を分散したので事務処理は極めて不便でした。そこで県令の楫取素彦(かとりもとひこ)は,前橋旧城の借り
上げの交渉を始めました。一方下村善太郎らを中心とする前橋町の有志も「県庁を前橋に」という運動を展開し,明治9年9月
に,県庁は前橋中学本部利根川学校を仮庁舎として前橋に移りました。そして明治14年,正式に太政官(だじょうかん)より県
庁を前橋に置く布告が発せられました。この時に高崎は,町をあげて奪還運動を試みましたが敗訴に終わり,以来,前橋と高崎は
何事にも対立して今日に至っているといわれています。
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県域の約14%が国立公園や国定公園になっていて,尾瀬(おぜ)湿
原や谷川岳,利根川などの優れた自然景観が豊富です。「からっ風」と呼ばれる冬の季節風を防ぐ防風林も,群馬県らしい自然景
観です。また,草津や伊香保(いかほ),水上(みなかみ)を中心に温泉地も多く,首都圏を中心に多くの観光客を集めていま
す。歴史的には,我が国の歴史を書き替えた岩宿(いわじゅく)遺跡,近代産業の発展を担った官営富岡製糸場が特筆されます。
産業では,養蚕とそれを生かした桐生や伊勢崎の絹織物,こんにゃく芋の生産,嬬恋(つまごい)村の高原野菜,板倉町の温室
きゅうり,飛行機生産に端を発する太田市の自動車工業などが特徴的です。映画「ここに泉あり」の群馬交響楽団
は,1945(昭和20)年に誕生しています。
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