高知県
県章:
  土佐 の「とさ」を印象化したもので,なかに高知の「コ」の字を構成した。
面積:
  7,105.20(km2)
人口:
  755,994
県の花:
県の木:
県の鳥:
県の魚:
  ヤマモモ
ヤナセスギ
ヤイロチョウ
カツオ
地図

mark1
[1]県名の由来
 高知県の旧名土佐国という名は,古くは「古事記」の中に登場しま す。大和朝廷の成立後,「都(土)佐」と「波(幡)多」の2つの国ができ,大化の改新の頃1つにまとまったようです。
 中学校の教科書では,紀貫之(きのつらゆき)の「土佐日記」が有名ですが,当時は土佐から京への旅は風待ちの船旅で約50 日もかかり,海賊もしばしば出没しました。
 高知という名が登場するのは近世に入ってからになります。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いの結果,長宗我部(ちょうそか べ)氏に代わって山内一豊(やまのうちかずとよ)が大高坂(おおたかさ)山に城を築きます。この地は,鏡川と江ノ口川にはさ まれており,河中(こうち)山と名づけられました。後にたびたび洪水がおこるため高智と改められ,1871(明治4)年の廃 藩置県(はいはんちけん)で高知県となりました。

mark2
[2]境界線の策定にまつわる話
 藩政時代の土佐1国が,そのまま高知県に移管したわけです が,1874(明治7)年,それまで愛媛県に属していた沖ノ島の北半分,鵜来(うぐる)島,姫島(現在は宿毛(すくも)市) が高知県所管となり,県域が確定しました。
 ちなみに,平成11年4月現在の行政区画は9市7郡25町19村となっています。

mark3
[3]高知県の位置
 高知県は四国の面積の約37%を占め,北には四国山地が連なってい ます。南は東西に長くのびた扇状の海岸線が土佐湾を作り,東の室戸(むろと),西の足摺(あしずり)の両岬が太平洋に突き出 た形となっています。
 現在高知市内を流れる江ノ口川の水面には「地球33番地」を知らせるモニュメントが建っています。北緯33度33分33 秒,東経133度33分33秒と3が12個も並ぶ地点です。経度と緯度が同じ数字で並ぶ場所は地球上にいくつかありますが, いずれも海上や砂漠・大草原など人が容易に近づけない場所にあるため,高知市のように多くの人々が見ることができません。平 成3年3月3日には地域住民や市民団体,企業が集まり,近くの小学校の3年3組の児童も参加して「地球SUN33SUNフェ スティバル」が開催されました。

mark4
[4]県庁所在地の位置と名称
 高知市は,人口32万人(平成11年4月現在)で県総人口の約4割 が暮らしており,藩政のころより政治・経済・文化の中心地でありました。土佐湾の一番奥まったところに位置するこの街は,波 静かな入り江である浦戸(うらど)湾の三角州上に形成されており,市街地には幾筋もの川が流れ込んでいます。平成10年の大 水害はこのような地形と無縁ではありません。平成10年4月四国初の中核市に移行しました。

mark5
[5]なんでもお国自慢
 高知県は進取の気性に富み,開明的で進歩的な思想を持った多くの人 材を輩出しています。その代表格である坂本龍馬(さかもとりょうま)は維新回天(いしんかいてん)の立役者でありなが ら,33年の短い生涯を疾風(しっぷう)のごとく駆け抜けました。自由民権運動の中心となった板垣退助(いたがきたいすけ) は,後に「自分の今日あるは坂本先生のおかげである。」と述懐(じゅっかい)しています。漂流の末,捕鯨船(ほげいせん)に 救助され,アメリカの教育を受けて帰国後は日米の架け橋ならんとしたジョン万次郎も高知県の出身です。
 江戸時代初期には,家老野中兼山(のなかけんざん)による新田開発が盛んに行われ,高知平野の農地は増大しました。今でも 市内を走る路面電車に「ごめん(後免)行き」と言った変わった名前があります。これは,当時新田を開発した者には年貢を免除 (後免)するといった約束にちなむ名前です。今でも県内いたるところに兼山の遺跡を見ることができます。
 産業としては,1年を通じて温暖な気候を利用し古くは二期作,現在ではビニルハウスによる野菜の促成栽培(そくせいさいば い)が盛んです。
 県西部を流れる四万十川(しまんとかわ)は,手つかずの自然が残る全国でも数少ない川として「最後の清流」と呼ばれていま す。

 


   

Copyright (C) 2003 by Tokyo Shoseki Co.,Ltd. All rights reserved.