徳島県
県章:
  「と くしま」の「とく」を図案化し,融和・団結・雄飛・発展の県勢を表現した。
面積:
  4,146.81(km2)
人口:
  785,001
県の花:
県の木:
県の鳥:
  スダチ
ヤマモモ
シラサギ
地図

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[1]県名の由来
 「徳島」の由来は,1585(天正13)年までさかのぼります。そ の年に豊臣秀吉は蜂須賀家政(はちすかいえまさ)を播州(ばんしゅう)から阿波(あわ)に転封しました。家政は名東(みょう どう)郡山分(現在の徳島市一宮町)の一宮城に入ったあと,将来を展望して,それまで渭津(いのつ)の渭山(いざん=猪の 山・海抜62m)と呼ばれた所に城を築き,そこを徳島と改称したことに由来します。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 1869(明治2)年の版籍奉還(はんせきほうかん)によって,阿 波・淡路(あわじ)2国だった阿波藩は,淡路の津名郡を除いた阿波の領域で徳島藩とされ,「徳島」が旧藩領域全体の呼称に拡 大されます。1871(明治4)年7月14日の廃藩置県(はいはんちけん)で,徳島藩が徳島県となります。同年11月15日 に,除外されていた淡路の津名郡を含めて阿淡二国は名東県と改称されます。これは一般には討幕諸藩は県庁所在地名を県名と し,朝敵藩は県庁所在地を含む郡名を県名としたといわれ,阿波藩が最終段階まで旗色を鮮明にしなかった報いともいわれていま す。名東県は翌年6月に旧讃岐(さぬき)国の香川県を併合し,1875(明治8)年9月の香川県再置まで,阿淡讃を管轄しま した。それは室町時代の管領家の細川氏の支配領域でした。名東県は1876(明治9)年8月に廃止となり淡路は兵庫県へ,阿 波は高知県に併合されてしまいます。その後,1880(明治13)年3月2日に徳島県が再置されて現在に至っています。

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[3]徳島県の位置
 四国の東部を占める徳島県は,北は香川県,西は愛媛県・高知県と接 し,東は紀伊水道を挟(はさ)んで和歌山県と向かい合っています。北緯34度線が県の中央部を通り,その北緯34度線上を西 へ進むと愛媛県をへて山口県下関市付近を通り,中国のチベットを横断します。さらに西へ進むと地中海南部を通りアフリカ最北 部の国,アルジェリアやモロッコにたどり着きます。東経134度線も県のほぼ中央部を通ります。これをたどって赤道を越え, 真っ直ぐ南に進むとオーストラリアの中央部を縦断します。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 県庁の所在する徳島市の中心部は,吉野川の沖積(ちゅうせき)デル タを流れる新町川・徳島川・寺島川・助任(すけとう)川などによって区分された七つの島,徳島・寺島・出来(でき)島・常三 島(じょうさんじま)・福島・住吉島・大工島から成り立っている。現在の徳島県庁は新町川が紀伊水道に流入する直前の南岸に 位置しています。
 名東県が1876(明治9)年8月に廃止となったあと,阿波は高知県に編入されます。高知県編入は,土佐の「立志社」と兄 弟結社の「自助社」が,立憲政体樹立・国会開設を叫び,激烈に県政を批判する鋭鋒(えいほう)をそらすためといわれます。名 東県廃止後,高知県徳島支庁が設置され,翌年には出張所に格下げされ,行政面の軽視が表面化し,阿波人の不満が高まり,風 土・歴史・人情を異にする土佐・阿波を一県とすることは無理として,最初の高知県会で「阿波国分離」が激論さ れ,1880(明治13)3月2日に徳島県が再置され,1889(明治22)年市町村制により,旧城下をもって徳島市が誕生 しました。

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[5]なんでもお国自慢
 徳島県は農業の盛んなところです。「すだち」「温州みかん」「レン コン」「梨」などの栽培が盛んです。プロゴルファーの尾崎三兄弟,小説家の瀬戸内寂聴さんは徳島県の出身です。

 


   

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