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山口という名前が,歴史に初めて登場してくるのは,現在山口市の円
政寺にある1254(建長6)年の金鼓(こんく)に「防州山口月輪山円政寺天神宮」と書かれているのが初見です。
別に,東大寺の大仏には県内の長登銅山の銅が使われていますが,山口という地名はこの鉱山へ続く道の入口であるということ から,こう呼ばれるようになったという説もあります。 |
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山口県は,もともと萩藩(毛利の本藩)の領地がそのまま移行したも
のです。さらにさかのぼれば,鎌倉中期から大内氏が支配していた地域がそのまま県になっています。
山口県スタート時点は,境界線策定について大きな苦労はありませんでしたが,明治の途中で山口廃県案が帝国議会で出された ことがあります。しかもこの提案を行った時の総理大臣が山口出身の桂太郎というのですから,たいへん皮肉なことです。 この案では,山口県を二つの地域に分割して,一方を福岡県に一方を広島県に編入しようというものでした。これは,結局廃案 になりましたが,現在の山口県は,福岡と広島の両経済圏に影響され,県内の主な商業地域は,衰退する一方です。桂内閣が,将 来の山口県の姿を予測したのか,すでに当時からこのような実態であったのかどうかは不明ですが,興味深い案ということができ ます。 |
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山口県は,本州の西のはしにあり,関門海峡(かんもんかいきょう)
をはさんで北九州と向かい合っています。また,朝鮮半島にも近く,下関と釜山(プサン)との間に連絡フェリーが就航していま
す。
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萩藩の政庁は,初めは萩にありました。幕末になって攘夷(じょう
い)運動の高まりや討幕運動の進展にともない山口に政庁を置くようになりました。
第1次長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)で幕府に対して恭順(きょうじゅん)の意を示すため,一時萩に政庁を戻しました が,第2次長州征伐の時には再び山口に移され,幕府と対決姿勢を深めました。倒幕の目的を完成した後,旧萩藩の山口政庁がそ のまま県庁の建物として利用されました。 |
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山口県の人,それも年輩の人に山口県のお国自慢と尋ねると,総理大
臣を7人も輩出したことを挙げます。伊藤博文(ひろぶみ),山県有朋(やまがたありとも),田中義一,寺内正毅(てらうちま
さたけ),桂太郎,岸信介,佐藤栄作の7人です。しかし,このことばかりがクローズアップされますが,左翼系の政党の指導者
も多く輩出しています。保守的な風土と思われがちな地域の知られざる一面です。
個性的な文化人も何人か輩出しています。中原中也(なかはらちゅうや),金子みすゞ,種田山頭火(たねださんとうか)の3 人の詩人は有名です。 山口県の中部には,秋吉台(あきよしだい)というかなり大きな規模のカルスト台地があり,地下には秋芳洞(しゅうほうど う)といわれる鍾乳洞(しょうにゅうどう)が広がり,多くの観光客を集めています。 |
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