鳥取県
県章:
  飛ぶ 鳥の姿を平仮名の「と」に造形したマーク。
面積:
  3,507.31(km2)
人口:
  588,508
県の花:
県の木:
県の鳥:
県の魚:
  二十世紀ナシの花
ダイセンキャラボク
オシドリ
ヒラメ
地図

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[1]県名の由来
 鳥取県は,古くは東の因幡(いなば)と西の伯耆(ほうき)の2国に 分かれていました。この因幡と伯耆をまとめて鳥取と呼ぶようになったのは,江戸時代に入ってからです。池田光政(いけだみつ まさ)が1617年,因・伯(いんぱく)を領有し,邑美(おうみ)郡鳥取郷(とりごう)と呼ばれていた鳥取を本城としたこと によります。この時から,鳥取は因伯の中心となり,鳥取藩,鳥取県と呼ばれるようになりました。なお,鳥取という地名の起こ りは,現在の鳥取市付近には沼や湖が多く,水鳥を捕らえ朝廷に献上する鳥取部(ととりべ)が置かれたことに由来するといわれ ます。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 1871年の廃藩置県(はいはんちけん)までは,因幡国・伯耆国を 合わせ,鳥取藩として代々池田氏が支配していました。廃藩置県により,最初の鳥取県が誕生しました。この時の県域は,因幡と 伯耆に加えて,播州(ばんしゅう)の一部が含まれていました。しかし,同年11月には,その播州の部分が姫路県に合併され, また12月には隠岐(おき)国が鳥取県に編入されるなどの変更がありました。ところが,1876年政府は経費節減を理由に府 県の改廃を発表,この時,鳥取県(因幡・伯耆・隠岐3ケ国)は廃止され,浜田県とともに島根県に組み込まれ,県庁も松江に置 かれました。これに対し,士族を中心に,鳥取県の復活を要求する運動が盛んに行われ,政府もこうした運動を見て,山県有朋 (やまがたありとも)を派遣し実情を調査して,ついに1881年9 月12日,鳥取県の再置が決定し,因伯二州で現在の鳥取県ができました。

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[3]鳥取県の位置
 鳥取県は本州の西部に位置し,北は日本海,東は兵庫県,南は中国山 地を境に岡山県,西は島根県に境を接しています。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 県庁所在地は,鳥取県東部の中核都市である鳥取市です。1871年 の廃藩置県が断行された時,鳥取城内の建物が県庁舎に当てられ県政が開始されました。県名と県庁所在地名が一致するのは,維 新政府に忠実な勤皇(きんのう)藩の証拠だったといわれています。

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[5]なんでもお国自慢
 「鳥取」といえば,西の大山(だいせん)と東の鳥取砂丘を挙げま す。大山は,大山隠岐(おき)国立公園の中核をなす名山であり,わが国最大の鳥取砂丘は山陰海岸国立公園に位置する大自然が 創造した広大な砂の芸術作品であり,ともに鳥取県の観光の目玉です。面積の狭い県に2つの国立公園を有するということは,鳥 取県が豊かな自然環境に恵まれているという証しでしょう。
 鳥取県の農業は,その自然環境を生かした特性をもっています。その1つは,山麓(さんろく)の緩傾斜地を利用した「二十世 紀梨」の栽培で,その品質や生産量は全国一を誇っています。もう1つは,海岸砂丘地を利用した農業で,ブドウやラッキョウ, 長芋などの特産が「砂丘」の名称をつけて京阪神の市場に出され名声を博しています。
 文化財として,鳥取県の西部に位置する「上淀廃寺(かみよどはいじ)跡」と「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」があります。 「上淀廃寺跡」は,法隆寺や高松塚壁画(たかまつづかへきが)と並ぶ水準の絵画技法と進んだ図像(ずぞう)を持った彩色壁画 が発見された遺跡として全国的に注目されています。また,「妻木晩田遺跡」は,弥生時代後期の高地性集落跡で,弥生時代の代 表的な遺跡として知られる佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)遺跡を上回る全国最大級の規模を誇る遺跡であり,四隅突出型墳丘 墓,大型竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ),楼閣(ろうかく),環濠(かんごう),物見やぐら跡などが確認されており, 弥生時代のクニの姿を思い浮かばせてくれる貴重な遺跡です。

 


   

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