和歌山県
県章:
  和歌 山県の頭文字「ワ」を簡潔に図案化したもので,県民の和を象徴する。
面積:
  4,726.32(km2)
人口:
  1,016,563
県の花:
県の木:
県の鳥:
県の獣:
  ウメ
ウバメガシ
メジロ
マグロ
地図

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[1]県名の由来
 古代の頃は,樹木が繁茂していたことから「木国(きのくに)」と呼 ばれていました。713年,国郡郷名の好字令(こうじれい)で,「紀伊国」となりました。和歌山の表記は,「和歌山」と「若 山」と混用していましたが,元禄(げんろく)年間ころに藩が「若山」に統一しました。藩名としては,紀州藩などと用いられま したが明治からは和歌山藩に統一されたようです。
 和歌山県は,御三家の中でただ一つだけ藩の名前がつけられました。理由は紀州出身の徳川家茂(とくがわいえもち)と和宮 (かずのみや)との結婚で公武合体に協力したことや藩をあげて明治新政府に協力すると答えたからであるともいわれています。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 1869(明治2)年2月10日,明治政府に版籍奉還(はんせきほ うかん)を奏上し,6月17日に版籍を奉還し,藩主は知藩事に任命されました。紀州藩の田辺領は附家老の安藤氏が支配してい ましたが,明治元年5月に藩屏(はんぺい)に列し,従来の政務を兼務しました。明治2年6月20日に田辺藩,同年6月に新宮 (しんぐう)藩が置かれました。1871(明治4)年7月の廃藩置県(はいはんちけん)に伴い,和歌山・田辺・新宮の三藩 は,それぞれ和歌山県・田辺県・新宮県となりましたが,同年11月に田辺県・新宮県は和歌山県に統合されました。伊都(い と)郡・那賀(なが)郡の高野山領であったところは,明治2年8月に堺県に,明治3年には五条県に属し,明治4年11月に和 歌山県に統合され,現在の和歌山県の県域が定まりました。

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[3]和歌山県の位置
 和歌山県は,本州の最南端に位置し,西端は,東経135度00分で 日本列島の中央子午線に接し,南端の潮岬(しおのみさき)は,北緯33度26分に位置しています。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 県庁所在地は和歌山市で,名称は和歌山県庁。現在の県庁は,昭和 13年4月家老久野丹波守屋敷跡(現在,小松原通1丁目)に建てられたものです。
 当初,明治4年7月14日,砂の丸にあった政事庁を和歌山県庁としました。
 明治5年,城内砂の丸から西汀1丁目に移転。旧朝比奈惣左衛門屋敷跡(現在の汀公園)に西洋式の木造建築の庁舎が置かれま した。

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[5]なんでもお国自慢
 和歌山の大部分は,紀伊山地の山岳地帯で西,南には,海に迫って絶 壁となるところが多く,美しい海岸線をなしています。
 和泉,長峰(ながみね),白馬(しらま),果無(はてなし),大塔(おおとう)山脈などがあり,山々の間をぬって紀ノ川, 有田川,日高川,日置川,古座(こざ)川,熊野川があります。
 気候は温暖で白浜,勝浦,龍神,湯の峰,川湯温泉など海山川の特色を取り入れた温泉が多く,歴史と自然美と温泉に富む紀州 路として,年間2900万人を集める観光地でもあります。
 近・現代を生きた人では,明治外交界に活躍した陸奥宗光(むつむねみつ),世界的な生物・民族学者の南方熊楠(みなかたく まくす),望郷の詩人,佐藤春夫らが有名です。稲村の火で津波から人びとの危急をすくった浜口梧陵(はまぐちごりょう),地 租軽減運動に挺身(ていしん)した児玉仲児,大逆(たいぎゃく)事件に連座,刑死する大石誠之助(おおいしせいのすけ)も忘 れがたい人物です。
 産業は伝統的な産業が中心であり,農業は紀ノ川流域が穀倉地帯となっていますが,平野が少ないため「紀州の茶粥(ちゃが ゆ)」といわれるように,米の自給率は現在でも8割弱にすぎません。そのようななかで傾斜地の利用が進み,果樹栽培・梅の栽 培が盛んです。漁業では特色ある捕鯨(ほげい)業,林業では熊野林業のほか,熊野の炭,特に備長炭(びんちょうずみ)が有名 です。

 


   

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