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県名の長野の起源は,近世に善光寺(ぜんこうじ)門前付近を長野村
としていた通称名に求められます。その長野という小字(こあざ)名は,文字通り長い原という意味だったと思われます。それが
戦国時代には集落の名となり,近世の初めには村名となり,町・市の名となったばかりでなく,1871(明治4)年にこの地に
県庁が置かれるようになって,県の名まで昇格しました。「長野」の地名が県名にまで出世した,まれにみる幸運な地名というべ
きでしょう。
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長野県は,「日本の屋根」といわれます。奥穂高岳(おくほだかだ
け)・槍ヶ岳(やりがたけ)など,標高3,000メートル以上の高山が10峰もそびえていて,それらが周りの県との境界線と
もなっています。「『信濃の国』の歌を知らない信州人はいない」とか「『信濃の国』が歌えない人は信州人ではない」という話
を聞くことがあります。歌詞の1番のみを紹介します。「♪信濃の国は十州に/境連ぬる国にして/聳ゆる山はいや高く/流るる
川はいや遠し/松本伊那佐久善光寺/四つの平は肥沃の地/海こそなけれ物さわに/万ず足らわぬ事ぞなき」この「信濃の国」は
1968(昭和43)年に長野県歌に制定され,これを歌う人が住む長野県の人を長野県人とは言わずに信州人と呼ばれるのは,
そこからきています。
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長野県を日本の中心とみる人がいます。試みに地図によってみると,
北緯31度の九州佐多(さた)岬と北緯45.5度の北海道宗谷(そうや)岬の中間は北緯約36度であり,また,東経
129.5度の九州平戸島(ひらどしま)と東経145.5度の北海道ノサップ岬の中間は東経約138度ですから,その交点
は,長野県上伊那郡辰野町です。この地点は長野県のほぼ中心であり日本の中心でもあるのです。
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1871(明治4)年,廃藩置県(はいはんちけん)が行われ,小さ
な県がたくさんできました。これらの県を廃止し,東北信(長野県の東北部)の全部を長野県に統一しました。中南信(長野県の
中南部)は飛彈(ひだ)国とあわせて筑摩(ちくま)県になりました。しかし,筑摩県はできてから4年足らずで,松本市にあっ
た筑摩県庁が火事で燃えてしまったことをきっかけにして廃止され,中南信は長野県に合併されました。もとの信濃の国の全部が
長野県になったのです。長野県庁は長野市にあります。しかし,もし初めから信濃の国全部が一県になっていたら県庁は松本市に
置かれたかもしれません。松本市は長く信濃の国府が置かれていましたし,江戸時代末期には1万4千ほどの人口があったのです
から。
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「信濃(しなの)では 月と仏と おらがそば」という小林一茶の俳
句があります。この句に登場する月は,月の名所として名高い更埴(こうしょく)市姨捨(うばすて)の「田毎の月」で,仏とは
長野市の「善光寺」のことを指しています。そして,おらがそばは「信州そば」のことです。自然景観の月と,心のよりどころの
仏と,人間の本能のひとつの食欲を満たすそばを巧みに詠み込んでいて,まさに長野県の三大名物揃いです。現代風に詠み替えて
みましょう。「長野では 雪とりんごと オリンピック」はいかがですか。雪はスキーヤーを喜ばす雪のことです。また,長野県
を代表する果物である信州りんごと,多くの人の心をつかんで記憶に新しい1998(平成10)年の冬季オリンピックが新名物
です。これからどんな句が生まれる長野県になるでしょうか。
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