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新潟(にいがた)という地名が初めて登場するのは,1568(永禄
11)年に書かれた上杉謙信(うえすぎけんしん)の書状の中で,新潟が謙信の北征(ほくせい)の拠点であったことが分かりま
す。地名の由来は,信濃(しなの)川,阿賀野(あがの)川の河口の中洲(なかす)の新しい潟(沼地)が形成されたことに因
(ちな)むといわれています。かつての越後(えちご)平野には,大小無数の潟湖(せきこ)が散在していましたが,近世から最
近までの干拓によって次々と姿を消し,現在では新潟市の自然公園になっている鳥屋野潟(とやのがた)だけが当時の名残を伝え
ています。
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明治4年7月の廃藩置県(はいはんちけん)で,越後と佐渡に13県
が誕生。政府の統合政策によって同年11月には,新潟・柏崎(かしわざき)・相川の3県体制となりました。明治5年に新潟県
令に就任した楠本正隆(くすもとまさたか)は,一国一県の持論をもち,明治6年には柏崎県を新潟県に合併しました。この合併
の前に両県の関係者が集まった酒宴で,楠本県令が「合併するとしても,吸収される側は不服であろうから,相撲(すもう)で勝
負を決めようではないか。」と発言し,酔いも手伝って衆議一決,県令自らが行司役となって対戦し,新潟側に軍配が上がったと
のエピソードも残っています。その後,明治9年に相川県を合併し,最終的に明治19年に福島県の東蒲原郡(ひがしかんばらぐ
ん)が編入されて現在の新潟県の県域が確定しました。因みにこの明治19年当時の県人口は約167万人で,全国一の人口大県
でした。
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本州の日本海側のほぼ中央に位置する新潟県は,山形・福島・群馬・
長野・富山の5県と接し,山形県境から富山県境までの海岸線の距離は275kmにも及びます。県の面積は,富山・石川・福井
の3県を合わせたものにほぼ等しく,県の西端近くには,糸魚川(いといがわ)・静岡構造線も走っています。新潟県と首都圏を
結ぶ交通網の発達は目覚しく,上越新幹線,関越(かんえつ)自動車道,上信越(じょうしんえつ)自動車道等の開通によって首
都圏は完全に日帰り圏となりました。また,新潟市から西へ約1000kmの位置にはソウルが,そして,北西へ約800kmの
位置にはウラジオストク等の都市があり,新潟は環日本海の拠点としてもその重要性を増しています。
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新潟市は,県中央部の北寄りに位置し,越後平野の中心部にありま
す。歴史的にみると,江戸時代は新潟湊(みなと)を中心に発展し,1698(元禄(げんろく)10)年の記録では,入港船舶
3500隻を数え,幕末の開港5港の一つにも指定されると同時に,新潟奉行所(ぶぎょうしょ)等も置かれていました。このよ
うに越後の中心として発展した新潟は,明治22年に市制がひかれ,新潟市となりました。古くから政治・経済の中枢(ちゅうす
う)であった新潟市が県庁所在地となり,現在では,本州の日本海側最大の都市となっています。
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新潟県を象徴する代表的なものとして,米,雪,酒等があります。米
は,うまい米の代名詞となったコシヒカリの主産地であり,生産量も毎年,北海道と一,二を争っています。低い緯度と標高で,
多量の雪が降る新潟県は,雪の多い所です。大雪の記録では,1666(寛文6)年の「越後大雪,高田積雪一丈(じょう)五尺
(しゃく)(4.5m)」が有名で,この時,加賀藩の飛脚(ひきゃく)が,「この下に高田あり」の立て札をたてたそうです。
県民性については,「粘り強く,勤勉だが地味」というのが一般的で,全国的に知られた人物としては,戦国武将の上杉謙信や江
戸時代の禅僧(ぜんそう)であった良寛(りょうかん),近代郵便の父といわれた前島密(まえじまひそか)などが挙げられま
す。
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