秋田県
県章:
  秋田 の「ア」を図案化し,秋田県の発展する姿をあらわす。
面積:
  11,636.32(km2)
人口:
  1,076,205
県の花:
県の木:
県の鳥:
  フキノトウ
秋田スギ
ヤマドリ
地図

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[1]県名の由来
 秋田という地名が歴史上初めて顔を出すのは『日本書紀』です。斉明 (さいめい)天皇の4(658)年に阿倍比羅夫(あべのひらふ)が水軍を率いて北方遠征(えんせい)したときの記録に,齶田 (あぎた)という内容で登場してきます。比羅夫は水軍を齶田浦(あぎたうら)に停泊(ていはく)させたこと,齶田(秋田), 渟代(ぬしろ),能代(のしろ)の蝦夷(えみし)を服属させたことなどが記されています。その後,733(天平5)年の『続 日本紀(しょくにほんぎ)』に,蝦夷の反乱に備えるために庄内(現在の山形県)に置かれていた出羽柵(いではのき)が「秋田 村高清水岡(あきたむらたかしみずのおか)」(現在の秋田市寺内(てらうち))に設置されたとあります。「正倉院文書(しょ うそういんもんじょ)」によれば,出羽柵は760(天平宝字4)年頃に「秋田城」と呼ばれるようになったことがわかります。 このようにして秋田という地名は律令国家の地方支配の体制に組み込まれていくなかで記録されてきたようです。1871(明治 4)年1月,藩の名前をそれまでの久保田から古来の地方名「秋田」に改め,廃藩置県(はいはんちけん)によって県名になりま した。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 1871(明治4)年7月14日の廃藩置県のとき,秋田・岩崎・亀 田・本荘(ほんじょう)・矢島の5県ができました。このとき,現在の県南部の由利(ゆり)郡の一部は前の年に山形県に組み入 れられていました。また,県北部岩手県との境に位置する鹿角(かづの)郡は戊辰(ぼしん)戦争の後,南部(なんぶ)藩の領地 が減らされたことに伴い盛岡県(現在の岩手県)に属することになり,続いて松代(まつしろ)藩の支配下に移され,八戸(はち のへ)県[すぐに三戸(さんのへ)県と改称],続いて江刺(えさし)県(現在の岩手県)の所属となりました。江刺県庁は鹿角 から遠く離れた遠野(とおの)にあったため,鹿角には「江刺県花輪御役所」という県の分局が置かれたのです。この動きは,わ ずか一年の間に起こりました。そして,1871(明治4)年11月,秋田県は前述の5県に他県の鹿角郡と由利の一部を大合併 して,今の形になったのです。

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[3]秋田県の位置
 秋田市の北にある干拓で有名な八郎潟(はちろうがた)から北緯40 度線上を西へ真っ直ぐ進むと中華人民共和国の首都ペキンへたどり着きます。さらに進むとトルコの首都アンカラを経てイベリア 半島スペインの首都マドリードに到着します。秋田県は,東北地方北西部にあり,西は日本海に面し,北東南の三方が山並みに囲 まれており,この海や山の自然の境界線と県の区画とが一致しているという特徴を持っています。

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[4]県庁所在地の位置と名称
 県庁所在地の秋田市は,ほぼ北緯40度,東経140度に位置してい ます。この地域は古くから政治上の中心地で齶田(あぎた)と呼ばれ,奈良時代には蝦夷(えみし)の制圧のために「秋田城」が 築かれていました。ここはまた,外交上も重要な港で,大陸・渤海(ぼっかい)との交流も行われたようです。秋田市には,物資 輸送の大動脈である雄物川(おものがわ)が流れ,河口部の土崎湊(つちざきみなと)は,藩政時代,日本海側では有数の港で, 東西廻船の寄港地として発展していました。

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[5]何でもお国自慢
 秋田は自然豊かな県です。1993(平成5)年,白神(しらかみ) 山地が世界遺産に登録されました。秋田はお米の国です。その生産量は,北海道,新潟に次いで3位です。祭りで有名なのは秋田 の竿灯(かんとう),男鹿(おが)のなまはげ,横手のかまくらなどです。人物では,「浜辺の歌」の作曲者・成田為三(ためぞ う),TDKの創始者・斎藤憲三(さいとうけんぞう),国民的な流行歌手・東海林太郎(しょうじたろう),第1回芥川賞受賞 作家・石川達三(たつぞう)らがいます。食べ物では,きりたんぽ,稲庭(いなにわ)うどんなどが有名です。最近,能代(のし ろ)工業高校のバスケットボールチームも有名になりました。

 


   

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