岩手県
県章:
  岩手 県の「岩」を図案化したもの。
面積:
  15,278.89(km2)
人口:
  1,314,180
県の花:
県の木:
県の鳥:
県の魚:
  キリの花
南部アカマツ
キジ
南部サケ
地図

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[1]県名の由来
 岩手県は,旧盛岡藩(南部藩)の城下町であった盛岡が県の中心と なったため,盛岡が属していた「岩手郡」の郡名から採って県名としました。明治新政府は,権力を中央に集めて国家の統一を強 めるために廃藩置県(はいはんちけん)を考えていました。1870(明治3)年,盛岡藩は盛岡県に変わります。盛岡藩は新政 府の方針を先取りして,全国の各藩に先がけて廃藩置県に踏み切ったのです(全国的な廃藩置県は1871年(明治4年))。  それには,次のような事情がありました。明治維新における戊辰(ぼしん)戦争に参戦して敗北した盛岡藩は,「朝敵」「逆賊 (ぎゃくぞく)」の汚名(おめい)とともに減封・転封の厳しい処分を受けました。そして再び盛岡への復帰を認められますが, その代償(だいしょう)として70万両もの大金の献納(けんのう)という苦境に立たされます。献金減額の願いと新政府へ恭順 (きょうじゅん)の意を示す窮余(きゅうよ)の策として,廃藩置県を願い出て受理されたのでした。 その後,1872(明治 5)年に盛岡県を改称し岩手県になります。それは,戊辰戦争を戦った「盛岡藩」のイメージを断ち切りたかったからかもしれま せん。

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[2]境界線の策定にまつわる話
 現在の岩手県の範囲には,盛岡藩を中心にして,県南地方には仙台 藩,その支藩一関(いちのせき)藩,また北には八戸(はちのへ)藩がありました。この4つの藩が消滅(しょうめつ)し,岩手 県が誕生するまでの経過は,実に複雑です。今の岩手県が成立するのは1876(明治9)年ですが,この間に10回以上も行政 区画が変更になります。最終的な線引きは,磐井(いわい)県[初め一関(いちのせき)県,ついで水沢(みずさわ)県]を廃 し,南地域の郡は宮城県へ,北の胆沢(いさわ)・江刺(えさし)・磐井の各郡を岩手県に編入し,さらに宮城県から気仙(けせ ん)郡を編入,また青森県から二戸(にのへ)郡を編入して,現在の岩手県が成立しました。

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[3]岩手県の位置
 岩手県北部には北緯40度の緯線が通っています。この40度線上を 西へ真っすぐ進むと秋田県の男鹿(おが)半島を通って,日本海を越えて中華人民共和国の首都ペキンへたどりつきます。さらに ユーラシア大陸を西へ進むとトルコの首都アンカラへ,地中海を横断するとスペインの首都マドリードが,そして大西洋を越える とアメリカ合衆国の大都市フィラデルフィア,すぐ近くには首都ワシントンやニューヨークがあります。太平洋岸に進むと近くに サンフランシスコがあります。このように,盛岡市は世界の有名な都市と同緯度付近に位置しているのです。

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[4]県庁所在地・盛岡市の位置と名称
 盛岡の起こりは,江戸初期,南部氏がこの地に城を築き南部20万石 (初めは10万石)の城下町として,領国支配の中心にしたことに始まります。廃藩置県により盛岡県になり岩手県に改称された 際にも,政庁は盛岡に置かれ現在に至っています。

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[5]何でもお国自慢
 岩手県は,北東北の太平洋側にある四国四県に匹敵する,北海道に次 ぐ広大な面積をもつ大県です。広い県土は自然豊かで,日本の故郷といっても過言ではない雄大で美しい環境が残されています。 西部には南北に高く険しい奥羽山脈が走り,至る所に温泉が湧(わ)き,十和田八幡平(はちまんたい)国立公園になっていま す。また東側の太平洋岸は,海のアルプスと呼ばれる断崖絶壁(だんがいぜっぺき)やリアス式海岸の連なる陸中(りくちゅう) 海岸国立公園があります。県内の全く異なった山岳地域と海岸地域に,2つの国立公園があるのが自慢の一つです。

  【参考文献】・新岩手風土記 創土社 ・図説盛岡四百年 郷土文化研究会 ・岩手県の百年 山川出版社 ・県名の由来 東京書籍


   

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