花ちゃん・オー君・モンタ博士のてくてく自然散歩シリーズ


 スギと日本人のくらし
前号の植物の仲間当てクイズはとっても楽しかったですね。」
モンタ博士! 植物は食べるだけじゃなくて,ほかにどんなことに使うの?」
おうちを建てるときに,木はなくてはならないわよね。」
そのとおりだね。日本のおうちを立てるときには,スギやヒノキを使うね。日本は面積の70%は山といわれているんだよ。その山のうち,80%がスギやヒノキを植えているのさ。」
そんなにたくさん,スギとヒノキだらけなんだ。それで,花粉症(かふんしょう)とかになる人が多いんでしょ。」
花粉症の原因はいろいろあるけどね。今,日本の国でまったくの自然の林とか天然の森とか言われているのは,本当に少ないんだ。」
同じ植物ばかり植えてあっては,そこに出てくるほかの植物も種類が少なくなってしまうんじゃないかな。」
そのとおり。すばらしいことに気がついたね。むずかしい言葉でいうとね,多様性というものが,生き物の世界では,とっても大切なことなんだ。」
ぼく,スギとヒノキの森では,あまり虫とかとったことないもんな。」
さらに,おうちを建てるためには,スギやヒノキが必要といったけどね, このごろは,外国から安い木がいっぱい入ってきてね,日本の木のほうが値段が高いくらいなんだ。それで,山の仕事をする人がへってきて,山がどんどんあれてきているんだよ。こまったことさ。」
まったく,こまっちゃうね。スギやヒノキにはね……。」
でもね,スギというのは日本にしかない植物なんだよ。それで,日本人はスギにとてもお世話になってきたんだ。もし日本にスギがなかったら,日本の文化は発展しなかったんだよ。」
スギにとてもお世話になったということは,どういうことなんですか。」
むかしむかし,あるところにある人がいて,いろいろな木を見て,なんとか,板みたいなものを作れないかな,板を組み合わせて船が作れないかなとか考えたんじゃないかな。」
それで,それで。」
そのころは,木をたおしてとがった石をかませて,木をさこうとしたんじゃないかな。ノコギリなんてまだないころだよね。」
それで,それで。」
いろいろな木でためしたんじゃないかな。マツとかサクラとかさ。そしたらさ,スギでやってみたら,なんとかんたんに板にできることを発見したんだよ。これなら使えると思ったんだよ。」
いつごろの話なんだろうな。」
2000年,3000年,いや,もっともっと昔かもしれないね。」
それから日本人はスギと仲良しになったのね。」
加工しやすく,かるく,じょうぶで,日本人は屋根の板にしたり,船をつくったり,おけをつくったりして,生活を豊かにしてきたんだよ。」
だから,スギは日本で一番たくさん植えられている木なんだね。」
そのとおり,日本の植林面積の40%がスギなんだ。すごいだろう。むかしから,そして,これからもたくさんお世話になると思うよ。」
長い長い歴史を見れば,人と木はずっと仲良くしてきたんですね。」
そうだよ。西洋が『石の文化』の国と呼ばれているのに対し,日本は,『木の文化』の国というからね。」
ぼく,なんだか,スギが好きになってきちゃった。もう少しくわしくお勉強してみようっと。仲良くしよっーと。」
スギは日本人の暮らしを支えて・・・・・・(長めですが我慢して読んで! ウンチク(薀蓄)ある話です)
 スギは学名Cryptomeria japonica(クリプトメリア ヤポニカ)とあるように,日本特産の針葉樹であり,世界中探してもスギがあるのは日本だけである。西洋が石の文化といわれるのに対し,日本は木の文化であり,その主役はスギであった。
 西洋の都市生活には都市壁の存在が欠かせないので,都市域の面積はどうしても小さいものにならざるを得ない。二階三階建てはざらであった。その結果,水の補給に悩まされただけでなく,排泄物の処理が過密都市での大きな問題となるのである。西洋の農業では,日本と違って糞尿類を肥料にするのは,野菜畑や果樹園に限られており,普通の麦畑には少なくとも人間の糞尿は不用だった。当然,内容物はいつもあふれがちになり,17世紀のパリでは,ルーブルの中庭や階段にまで便がたまり,いつも悪臭をまきちらしていたとも伝えられている。一番やっかいなのは,三階四階などの住民が便器を愛用し,日没後ともなれば,その内容物を窓からすぐ下の街路に捨てる風習のできたことだった。パリでは内容物をこぼす前に,三度「水にご注意」と叫ばないといけないという法令が出たそうである。また,内容物を撒き散らし,それを処理するためにブタを放し食べさせたともいわれている。密集した都市で最も恐れられていたものは,伝染病であり,衛生状態も劣悪であったのであろう,当時の西洋の都市人口の限界は5〜10万人だったそうである。
 日本ではどうであったかというと,「慶安御触書」で百姓に対し,便所を広くつくれ,屋敷のすみずみにもつくれと糞尿肥料のための設備拡張を勧めており,当時からみごとなリサイクルが行われていたということである。
 1609年に日本を訪れたある外国人は,「日本には沢山の都市があるが,その都市は広くて大きく,人口も多く,清潔で欧州の都市でこれに比較できるものはない。人口20万の都市も多く,京都は80万江戸は100万をこえている」と当時の日本の都市のりっぱさに感嘆している。要するに,糞尿のみごとなリサイクルが清潔な都市を作ったのである。
 近世になって,大阪でも江戸でも糞尿は金銭で売買されるようになり,農繁期の汲み取りのために専業者が活躍し始めたのである。江戸も大阪も水路がよく整っており,スギの厚板製の平底船に,たくみにパッキングしたスギの桶を積んでかなり遠くまで運搬できるので,そういう商売が成立したのであろう。
 そのような風景は日本のどこにでも見られたのであり,大都会でも地方の小さな町でも糞尿は大切に扱われ,農地に運ばれたから,住民環境を汚す必要も心配もいらなかったのは,当然であろう。人間や家畜の排泄物のほとんどが農地に還元され,吸収されずに溢れ出て河川や池沼に流出するのもきわめて少なかったはずで,人間の住居のまわりばかりではなく,周辺の陸・水も清らかであったと考えられる。
 以上のことから,西洋では一般に都市の糞尿は農業肥料としては使われなかったといえる。そして,その最大の理由として,液肥が広く普及するための能率的運搬方法,特に材質が軽く,加工しやすいスギという木を使った適当な容器が無かったことが考えられる。液体容器の開発はスギという日本特産の樹木があったればこそ,実現可能であったといえる。
 西洋にも桶のようなものはあったと考えられるが,それは,テレビなどによく出てくる地下室に並んだブドウ酒の入った大きな樽である。さらに,樽にはいかめしく重そうな鉄の環までつけられているのである。日本には幸いなことに欧州のような北方では育たない竹というものがあった。スギの桶に竹というものを使い工夫をしてしまうところがすごい。「スギにタケをつぐ」…木の文化を発達させてきた日本人の英知に頭をたれるのみである。


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